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「仕事だ」
唐突に背後から聞こえてきた怒声に、思わず未継はびく、と肩を震わせた。
今まさに目の前の携帯を開こうとしていた手を止め、恐る恐る振り返ると声のまま不機嫌をあらわにした――彼がいる。
彼も未継の手に気付きはしただろうが、どうでもいいとばかりに肩にひっかけたタオルを放り投げた。
彼はいつもの彼とは程遠い、黒のジャケット姿に同じ生地のパンツを着ている。それは彼の今回の仕事上目立たないようにするためのものだが、それでも彼に
はよく似合っていると未継は思う。
普段の彼のラフなスタイルでは、海の上の船のごとく浮いてしまう。こんな仕事だからこそ他と変わらないように、それこそ自然に”そこにいる”ことが大切
なのだ。
「1週間後の18時までには片付けてほしいそうだ。…まったく、此方は年末で忙しいというのにね」
溜息と共に出た言葉に、未継はけれど何も同意しない。
そしてやはり彼もそれを気にしない。
当たり前だ、彼は別に未継の言葉を必要とはしていないのだから。そう、言うなればこれは独り言。
目の前の未継を通りすぎて言葉は空に投げ出される。
「1週間後…に、誰を?」
「まだ若い『アクティ』の社長を。未継も知っているだろう? 最近は特にテレビでもネットでもよく出ていらっしゃる、有名な電機メーカー。敵を作っている
と
も知らずにね。いや、知っていてやっているのかな? 邪魔者をあぶりだすには、いい手かもしれない」
「……」
「もっとも、今回はその邪魔者が僕らだけど。”イレイズ”されるのはどちらか、ってね…」
暗闇でも根強い存在感。消滅を宣告する瞬間、その目にどこか禍禍しい炎が宿ることを未継は知っている。だから驚かない。
しかしこのときの彼ほど、怖いものはなかった。
近くにいるようで別世界へと旅立ってしまった人の、本当の意味でそばにいるにはどうすればいいのだろう?
少なくとも未継は、その答えを知らない。…それこそ彼と過ごし始めて1年が経った、今でも。
「人の手を汚すのは厭わないのだから、実業家というものもそうそうなめてはいられないな。男女共同、無差別平等を叫びお茶の間を賑わわせているけれど…、
実
質はこんなもの。知っている? あの会社が最近黒字が目立つ会社で、1番女性の就職律が低いんだよ。…まったく馬鹿らしいことだ」
口では不平を並べながらも、その手は着々と次の準備に取りかかっていた。
今、彼が手入れをしている拳銃で命を失う人間がいくらいるのだろう。
なんともなくそんなことを考えたが、未継には分らなかった。
ふと、彼がその手を止め、今気付いたとばかりに未継を振り返る。
ゆっくりと目が細められ、口端が上がった。シニカルな笑みは彼にとても良く似合う。
……何故か殺される、と思った。
「君も僕ももう赤に染まりきっている。僕は好きでやっているけど君は違う。ねぇ、どんな気分だい? 未継。そろそろ君がこの仕事をはじめて1年が経つ。嫌
気が
さすかい? それともハマってしまった?」
「………」
「獲物が息を止める瞬間。世界が止まる瞬間。とても綺麗だとは、思わないか?」
「俺は……」
「――冗談さ」
未継が何を言う前に彼はそう締めくくってしまった。そうなってはもう何もすることはできない。
彼はずるい。
求めた答えは、求めたくない答えなのだ。ならば聞かなければよいのに、聞かないでおくこともできない。そしてその理由も教えてはくれない。
とても楽しそうな声音で、しかしその表情は凍っている。おそらくそれはもう溶けることのない氷だ。
ブルブル、と手の中の携帯が震えた。画面に着信を知らせる映像が点滅している。
未継は、ぼんやりと窓の向こう夜空を見上げた。
見たい星など浮かばなかった。
まだ彼と出逢ったばかりの頃。――つまりは彼女と出逢ったばかりの頃。
珍しく彼が未継を連れて出掛けたことがあった。
その日は例に見ない炎天下を記録した日で、少し動いただけでも全身に汗が噴出した。
彼に連れられて着いた先はとても大きな屋敷で、緑が多く、庭にある池には水棲動物がいくらでもいる。空気の綺麗なところだった。
そこに、彼女はいた。
知人とも言うにおこがましいほどの関係でしかないというのに、未継はそこで、初対面に近い彼女と置き去りにされたのだ。
そわそわとまではいかないが落ち着かない未継とは反対に、彼女は落ち着いたものだった。
す、っと通った鼻先に少し大きめの瞳。赤い髪留。沈黙というよりは静寂が似合う彼女は、未継よりも年上らしい。
全体的に整った容姿を持つ彼女は、彼の唯一のモノだ。…と彼から聞いていた。
彼女の目は光の加減によっては茶色にも見える。
とても綺麗な瞳だった。
「あの子が我らに拘わらないものを連れてきたのは、初めてです」
それが彼女の最初の言葉。
未継は何か気の利いたことを言いたかったが、特に何も浮かばず、結局「そうですか」と一言だけ返した。
「だからきっと、あなたも………」
続きの言葉は無く、彼女は静かに顔を伏せた。動きに連れ立ってか前髪がさらりと揺れる。
未継は、それは聞いてはいけなかった言葉なのだと思った。
だから言葉の続きではなく、違うことを彼女に訊いた。
「彼を、とめないのですか」
「……とめる?」
「そうです。あなたの言うことは彼にとって絶対なのだと聞きました。だったら…」
真っ直ぐに未継の目を見ながら、彼女は首を振った。
「あの子は、そう見せているだけ。本当はわたしから離れているわ。遠く遠い何処かへ、行ってしまったの。声も届かない……ただ思い出した時にふらりと帰っ
てくる渡り鳥のよう。寂しいくらいにね。……もう、ずっと昔から」
「そんな。俺にはそんな風には思えなかった。彼があんなにも他人に向き合うところなど見たことがなかった」
「あなたは?」
「俺には…俺は、彼にとってモノと同じだから。それ以上でもそれ以下でもないそうです…そう、言われました」
「嘘ね」
彼女は自信に満ちた表情をするでもなく、何処か虚ろな目で呟いた。
強く意思を込めた声音だった。
「あなたが止めることのできないあの子を、どうしてわたしがとめられるかしら? そもそも、そのことに一体どんな意味があるというの?」
「意味なんて……あるのでしょうか。わからないけれど、でも、駄目な気がします。今のままでは」
「あの子を支えているのは残虐な、けれど確かな真実なのに?」
「………可哀想だから、と」
そうだ。確かにそう思ったはずだ。だから、駄目だと思うんだ。
自分でもよく理解できないままにこんなに強く思っている。
記憶の中で繰り返される言葉と、現在を生きる自分の言葉が重なった。
「あの子が? あの子に喰われる他のモノが?」
「…わかりません。識らない、から」
「言うあなたが識らないならば誰がわかるというの?」
その問いには、確か答えられなかったと思う。
「………ただわかるのは」
苦しかった、とあの時言えればよかったのに。
後悔だけが渦を巻いている現実に、いる。
――誰が言った言葉だっただろう。
「昨日死んだ者が、どうしても生きたかった明日を。死にたかった者が生きて行く。……こんなにも虚ろな世界に、俺は絶望しそうなんだと思います」
目を逸らしたのは未継だったから。
彼女がその時どんな顔をしていたのか、知ることはできなかった。
「………何を、ぼうっとしているんだい、未継」
「――」
――未継がぼんやりとしている間に、彼は全ての準備を終えたようだ。
また、何もすることができなかった。
彼の手の中には何時の間にか赤い液体の入ったグラスが揺れている。それは彼がゆらゆらと手を揺らすたび、零れそうなほどに弧を描いた。
彼はそれを飲むでもなく、静かに見つめている。
もしかしたら、何か別のモノが彼の目には映っているのかもしれない。
「君がぼうっとしていることなんて日常茶飯事だけど。仕事の前くらいは君も集中してくれないか?」
「ごめん」
「…いいけどね。では、僕らの望みの為に。行こうか」
「…ああ」
誘われるように席を立つと。沈んでいたソファは重荷をすくわれ、原型を取り戻す。
彼に飲み干されないまま置かれたグラスには、まだ波が止まらないままの液体が、未継を映していた。
未継は最後にそれに目をやると、先を行く彼の背中に向けて歩き出した。
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